表現の芽が出る瞬間とは-承認欲求と表現の違い・クリエイティビティ-

2024.11.3

表現したいという欲求

  • 自分の存在を知ってもらいたい
  • 自分の内なる思いを人に知ってもらいたい
  • 思想を伝えたい

このような気持ちは「承認欲求」といえば、そうなのかもしれないが、少し違う。

「表現したい」という欲求は、独自性、創造性(クリエイティブ)である。

そして、その欲求は人として尊いものなのではないかと、ふと思った出来事があった。

筆者は音楽が大好きで、Spotifyでお気に入りの音楽を貯め続けている。いわゆる趣味である。

承認欲求と表現欲求

ある程度、お気に入りの曲が溜まってくると、ふと、こんなことを思うのだ。

  • 自分のプレイリストを聞いてもらいたい
  • 自分の選曲のセンスを褒めてもらいたい
  • あわよくば認めてもらいたい

これは「承認欲求」が芽生えた瞬間である。

それに対し、こんな選りすぐりの良曲を探してきたんだから、せっかくだし、みんなに聞かせてあげよう、というのは「表現欲求」である。

なんとなく違いが分かります?

「表現の芽が出る瞬間」とは、子供のような純粋な思いが根底にあるはずだ。承認欲求と表現欲求とは違うもの。

大都市における承認欲求

承認欲求をもう少し深掘りしてみよう。東京のような大都市では、承認欲求を満たしたい人で溢れかえっている、ように見える。

ファッション、車、女、住まい。挙げればキリがない― 消費欲を掻き立て、承認欲求を満たしていく。それが資本主義の原動力である

そして、承認欲求を満たしたい人から発せられるメッセージをまともに受けてしまうと、受け取る側は大概は嫌な気持ちになる。(筆者の場合)

マウントを取られたような嫌な気持ち。

一方で、表現欲求によって発信されたメッセージというのは、なぜか心地よい。深い共感を見知らぬ他者から気付かされ、知性を刺激されてしまうという違いがあるのだ。

たとえば、街をブラブラ散歩していたら、たまたまバンクシーの絵に遭遇して、そのメッセージ性に何かインスピレーションを得るようなもの。

「そんな事あるんか?」とツッコまれそうだが、実は筆者は貧乏バックパッカーとしてロンドン滞在中の時である。お腹が空いたのでスーパーでサンドイッチを購入して、たまたま座り込んだ路上の場所が、バンクシーのストリートアートの目の前だったという偶然があるのだ。

表現したいという欲望の芽が出る瞬間

本題に話を戻す。「表現したい」という欲望の芽が出る瞬間というのは、日常生活において、本当にささいなことだったりするのではないか。別に、オシャレなアトリエや派手なステージである必要は全くない。

また、職業や年齢、性別、国籍なども全く関係ない。全ての人が共通して持っている。当然、アーティストである必要もない。

最近の例でいえば、こんな出来事があった。ある日、深夜に西新宿公園に路駐して、ケバブサンドを食べていた時のことである。

ふと、公園にホームレスのおじさんが、地べたに座り込んでいるのが見えた。よく観察してみると、ホームレスのおじさんは公園で拾い集めた大量のタバコの吸い殻を集めて空き缶の上で線香を炊くようにしていたのだ。

一瞬、ただ暇なホームレスが遊んでいるのだな、と思ったが、どうやらそうでもなかった。そこには何かしら独自性のあるルールとゲーム的な要素が備わっている事に気付かされたのである。

外国人旅行者がスーツケースを引きながら、その奇妙な儀式じみたお遊びを横目に通り過ぎる。

何かを通行人に対して伝えたい(表現欲求)という意図があったのではないかと気が付いたのだ。その「何か」とは何なのか?本人すら分かっていないのかも知れない。多分誰にもわからない。

しかし、その表現欲求によって発信されたメッセージで、深い共感を見知らぬホームレスから気付かされ、筆者の脳ミソを刺激されてしまった、という出来事、つまり、表現欲求の芽がでる瞬間を目撃したのだった。