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ブログが継続できない理由-焦り・孤独・先の見えない不安の中でも継続できる思考とは-

2024.4.22

筆者が今まで(今も?)ブログで成功しなかった大きな要因の一つとして、「すぐに結果を出そうとし過ぎた」ということに尽きる。

そして、その焦燥感というのは、こんな気持ちが根底にあったのである・・。

  • 有名なブロガーのように稼ぎたい!
  • ブログ収入で嫌な人間関係から抜け出して自由な生活を手に入れたい!
  • 快適でPC一つでどこでも稼げるストレスのない生活がしたい!

まるで、情報商材のキャッチコピーのような欲望が根底にあり、その欲望を早く叶えたい(=解放されたい)がために苦行に励んでいただけだった。

有名ブロガーのSNSなどをみては、羨望と嫉妬の思いに苛まれてしまい、自分がまだ成功していない状態に対して焦りを感じてしまう・・・

これは、「精神が疲弊している状態」になっている。こんな精神状態では、良い記事は当然だが書けない。

本人は栄養失調なのに周囲のペースに圧倒され過ぎてしまっているから、自分のペースで歩けないでいるような、ヨレヨレでフラフラの状態。

車で走っていて、後続車から次々と追い越されてしまい、他車のスピードについていけていない・・そんな感じだ。

成功しているブロガーの記事や発言は、実績を伴った正義である。

それに対して無名の発信者である自分の記事は….などと考え始めてしまうと、ペースが乱されてしまっていることに気づく。

そうなってしまうと、自分の書いた記事なんかは「どうでも良いゴミ」に見えてしまう。

人にはそれぞれのペースがあるのにも関わらず…。

人生はマラソンと同じでブログは長期戦で考えるべきである。

今こそ思い出してみよう、幼少期に読んだおとぎ話を。

  • ウサギとカメ = 地道にゆっくり歩き続けた亀が最後にはウサギより早くゴールに辿り着く
  • アリとキリギリス = 働いてばかりのアリを馬鹿にして、遊んでばかりいたキリギリスが、冬になって後悔してしまう

どちらも「継続することの大切さ」について語られているおとぎ話だ。

コツコツと継続することの大切さや、長期的に見るとどちらの生き方の方が正解なのか?を教えてくれる物語。ブログも同じように長い目で考えるべきではないだろうか。

恐らく、ブログでうまくいかない人の99%(筆者も含む)は、この「長い目で見る」ことができていない。自分の過去を振り返ってみても、結果をすぐに求めがちだった。

そして、その結果、小手先だけのノウハウや情報商材、オンラインサロンなどに頼ったりしてしまったり…。といった悪循環にハマりだす。

現代社会に生きるジレンマでもあるのだけど、日常の生活があまりにも快適過ぎる、日本社会に生きる我々だがゆえに、ブログにおいても同様に「すぐに出来てしまう=コンビニ」と安直に成果を出せるだろうという錯覚に陥りがちだ。

これはブログに限らず、筋トレ、勉強、仕事やビジネス、恋愛、スポーツなど人生における全てに置き換えても共通している部分はあると思う。

ブログを継続するには長い目で見ることが重要だ。短距離走ではなく、長期的なジャーニー(長い旅)と考えるべき。

というか、そもそも文章を書く事自体を楽しんでいれば、長旅も苦にはならないんだけども。

筆者はKindle Unlimitedで読書をほぼ毎日するようになってから、文章を書く事自体が楽しくなった。

次に大事なことが、「過去の失敗は忘れる」である。

過去に何度かブログやビジネスなどに挑戦しても、満足できる結果を得られなかった場合、その過去の失敗経験が、次のチャレンジにどんな影響を与えるのだろうか?

  • なぜあの時、継続できなかったのだろう…
  • もし、あの時に始めたブログを今まで継続していたとしたら、今頃どんなブログになっていただろう….

この様な後悔の思いが生じることがある。なんとも「過去の失敗経験」とは、このように厄介である。

これは30代以上の方には当てはまるのではないだろうか?若い人は過去の失敗経験がない(もしくは少ない)だけに新しいことに前向きにチャレンジできる。

一方で、歳をとればとるほどに人は過去の失敗経験が足枷となってしまうものだ。

単純に「文章を書く」というシンプルな行為に対して、余計なノイズが思考を遮り、次のステップにつながる新しい行動を邪魔していることに気付かされてしまう。

小学生の頃はどうだったか思い出してほしい。「日記を書くこと」自体を純粋に楽しい気持ちで行っていたはずだ。

また、絵を描いたり音楽を演奏したり、なにかモノを制作したりする時なんかも、心の葛藤など一切なく、純粋にその行為自体を楽しんでいたはず。

年齢を重ねた人にとって、何かを制作するという行為はいつしか苦行になってしまいがちなのである。行為を遮るさまざまな煩悩がそこにはあるのだ。

そんな失敗を経験した筆者が、それでもやはりブログ(制作)は続けていくべきだと、考え直した理由がある。

それは−−−「ブログ(制作活動)は自分と向き合う行為」だということ。ブログや文章を書くということは、自分と再び向き合う行為だと認識したのである。

文章を書くという行為はすなわち、「自分の内面や過去を振り返り、周囲をあらためて認識するよい機会」なんだという発見があり、なにより「それ自体に価値がある」と考えられるようになった。

文章力を鍛えるということは、なによりものスキルであり、自分と社会をつなぐ最強のツールなのである。

さて、文章力の大切さがわかったところで、次に大切なことは「毎日続けること」である。結果がすぐに出なくても、継続する必要がある。

ブログを成功に導くためには、「継続する」という覚悟が必要だ。というか、今までの文章を読んでいただければ、既にみなさん結果がどうあれ、文章を書く行為自体を純粋に楽しめているだろうから、もはや苦にはならないだろう。

その心持ちをを日々忘れないようにすることである。紙に書いて壁に貼り付けてもいいかもしれない。

そこまで出来れば、ようやく「文章を書く者としての入り口に立った」というわけである。

ブログをゼロから始めることは、「暗闇の中で見えない出口を手探りで探し続ける行為」に似ているのは肝に銘じておいたほうがいい。

その他には「様々な誘惑や嫉妬心」をどうにかする必要が出てくる。ブログ(制作活動)の道中では、結果が見えない不確かな暗闇を彷徨うことになるわけだが、この旅の道中において、「誘惑に立ち向かう覚悟」が必要である。

それは、「短期的にお金を稼げる仕事」や、「他のもっと魅力的に見えること」などがまるで家電量販店のスマホ売り場のようにあなたを次から次へと誘惑してくることだろう。

さらに、他の人が簡単に成功した話なんか聞いてしまうと「なんであんな簡単にできるんだ・・・」と嫉妬心も襲いかかってくる。

嫉妬心が生まれると精神的にストレスになるので、辛い日々を乗り越える、あるいは燃えたぎる嫉妬心を消火する必要がある。

もう一つのブログが継続できない理由を考えてみた。それは、「正解を求めるあまり、ブログが続かない」ということだ。

なぜブログを続けられなかったのか?自分なりに具体的に考えてみた結果、「ブログとはこういったものだ」という正解を求めすぎていた。

「ブログ正攻法、こうすれば最短で月100万円稼げる!」などの情報が蔓延していることもその原因の一つ。

こんな「安易な成功を約束する情報」が蔓延していることによって、自分の考え方がルールに縛られてしまっていたわけだ。

例えば、「グーグルの検索上位に表示されるような施工をすること」や、「読み手に対して気を使い過ぎる文体にする」ことが挙げられる。

「自分の自由なスタイルを文章を書こうとする思考を縛りつけるルールが蔓延しているおかげて、文章を書くという行為を退屈に感じられてしまい、疲弊を招き、つまらいものになくなってしまったのである。

これは、例えると、子供たちだけで遊んでいたところに大人がやってきて、ああしなさい、こうしなさいと口うるさいルールを押し付けられることで、単なる遊びがシラけるというのに似ている。

これでは、「自分らしさやオリジナリティを失ってしまうこと」につながる。

ルールに縛り付けられて「自分ではない何者か」になりすまし、独自性を失った文章は、果たして読む価値があるだろうか?(わかりやすいけど、面白味に欠けるということ)

例えば、ライターの挨拶文や記事の目次、検索キーワードに回答するための記事が検索上位に表示されるような記事は、読者に対するサービス精神が豊富な文章ではあるけれども、個人の内面を深掘りした独自性とはかけ離れている。

ネット検索すれば、「正解とされるSEO記事テンプレート」が幾つも存在し、それに沿ったブログの方が検索上位されやすい、という文章に沿ってしまうと、シラけるのは当然だとも言える。

その「正解を求める記事の構造や構成に基づいたブログ」は、例えると「同じようなスーツを着た就活生が一同に集団面接に向かう」ようだ。(かつて筆者も経験しましたが)。

そうならないために「ブログに正解はない、自分のスタイルを作り、文章制作を楽しむ」これを肝に銘じておくこと。

まあいろんなスタイルの文章があると思いますが、筆者のようなアウトサイダー系ライターの場合はこのようなマインドで文章を書くことにしている。

就活生のようにみんなと同じようなスーツを着てルールに縛られる必要はない。

自分の好きな自由なスタイル(ファッション)で分相を書けば良いし、そのほうが独自性があって読み手も面白いと思うだろうし、書き手も楽しく続けられるのではないだろうか。

自分のスタイルがメインストリートではなくとも、バックストリート(アンダーグラウンド)で生きていくことはできるである。

ブログ初心者のサイトやブログを見て感じるのは、どれも同じような内容で毒気がなく、面白みに欠けているように思える。

独自性の欠如が原因で上位に表示されないのではないか、また執筆者本人も自分のスタイルを変容してしまったがためにやる気を失い、結果続かなくなってしまったのではないか?とさえ思ってしまう。

  • この記事はライター自身の内面から湧き出た言葉なのだろうか? 
  • いつのまにか、Google検索キーワードの奴隷になっていないだろうか?

自分の内面から湧き出る言葉で文章を書くことが大切なのだ。

作家の村上龍もこんなことを言っていた。

「頭脳ではなく、内臓でかかれた小説だけがリアルなのだ」

検索キーワードに縛られずに自分のスタイルで記事を書くことが、読者にとって魅力的なコンテンツにつながると信じたい。

  • 内面から湧き出たリアルな言葉で記事を書く

こういった、自分の内面から湧き上がってくる思いや言葉は、ネガティブなものが多い。ブログよりもX(ツイッター)の方が表現の受け皿になっているかもしれない。

でもブログでも十分に表現することができると思うし、ブログだとある程度まとまった記事を読んでもらえるので、双方にとっても価値があるだろう。

世の中に対して言いたいことや思うところが多い人は、思いを言語化して発信することに価値があると思う。

X(ツイッター)では表現しきれない内容も、ブログのほうが深く掘り下げることもできる。

このような一連の思考の経緯から、今までの「正解を目指すようなブログ」ではなく、「思考を掘り下げるブログ」を書くことに変化したわけです。

これは、ある種の告白というか表現に近いのかもしれないが、その真実味こそが読者にとって魅力的な要素になる。(=ファンを形成できる)

つまり、「万人に受け入れられなくてもいい」と割り切ること。ブログや制作物はそもそも万人向けである必要はない。

ある特定の共感を得られるコアな読者を見つけることのほうが重要なんじゃないだろうか。

また、これは多少大袈裟かも知れないが書かせてもらおう。「ブログはあなたが生きた証になる」である。

ブログを通じて自分の思想をネット上に残すことは、自分の生きた証となる。(他の人にドメインを継続させる必要はあるが)。

こう考えると結果が即座に出なくても、毎日継続することができないだろうか?あなたの文章は、自分の死後も、未来に生きる誰かに見てもらえるのかもしれない。

人生を振り返り、自分の思想を正直に世の中に対して表現できたかどうか?オンライン上における石碑のような役割を果たすことができるはず。

ブログを継続する目的は、単にアクセス数や売り上げを追求することではない、自分の精神を鍛える行為であると」考えを改める。

それよりも、自分自身の精神的な豊かさを追求することが重要だ。コアなファンを持ったり、文章自体を楽しんだりと。

そうでなければ、アクセス数が上がる保証はなく、逆に上がらない可能性もあるからだ。そんな低い可能性の結果に対して、毎日の努力は苦痛ではなくなるはず。

最後にもう一つ、「ペンは剣よりも強し」という福沢諭吉先生の言葉から。文章力、表現力、発信力を身につけることは、人生において非常に役立つということ。

文章力は武力よりも強力であり、言葉を巧みに操ることは、人間がさまざまな困難に立ち向かう上で不可欠なスキルなのだ。

ブログを継続することは、文章力を鍛えるトレーニングであり、このスキルは人生のあらゆる場面で役立つ。

以上、これらの考え方をもとに、筆者は新たな文章を書き始めることにしたのである。

あなたも、いますぐに文章を書きたくなってきたのではないだろうか?この記事が何かのお役に立てれば幸いだ。