社会的価値があることが、必ずしもお金にならない理由
社会的に価値があると自分で思っていることが、必ずしもお金につながるわけではない。
個人的な経験から述べることにする。
筆者の地元にある神社祭りの参加者が年々減少してしまい、本来の祭りが持つ盛り上がりに欠けてしまっているという問題がある。こういった問題は田舎ではよくある話であり、日本各地で起きている減少ではないかと思う。
さらに、追い打ちをかけるように、2020年に発生した新型コロナウイルスの発生によって全てのイベントが開催されなくなり、その影響を引きずったまま、コロナが終息した今でも活気を取り戻すのが難しい状況が続いている。
これには根深い問題が複雑に絡んでいると思う。
その理由として、少子高齢化や働き盛りの年齢層が都心部へと移っているためである。
結果、祭りの参加者は近所の農業や行政などに従事している、もしくは高齢者だけとなっているのが現状だ。参加者全員がか顔見知りであり、全て予定調和。これでは、いまいち盛り上がりに欠けてしまいそうである。
なぜなら、かつて地元の神社においては、神輿を担ぐ者同士による、血を見るような熱く、激しい祭りであったからである。また、地元の歴史研究家によると、かつては神社の建物の裏では非合法は賭博(博徒)を行なっていたとう記述もあった。
そういった歴史を振り返ってみると、昨今の祭りは細菌消毒(サニタイズ)された、無味無臭な味気のない、形式だけの、本来の意味を失った、形骸化されたように思うのは筆者だけだろうか?
例えると、学校の校長先生のお決まりの挨拶のような、行事に成り下がってしまったわけである。
しかし、そんな状況に甘んじている人ばかりではない。そんな状況を見かねた村の祭りの関係者たちも、この状況をなんとかしたいという危機感を抱いていて、何とか自分たちの地元の祭りを以前のように盛り上げたい、という強い思いがあった。
過疎化している田舎の祭りの再興 = 社会的価値が高い
この仕事(あるいは役割)は社会的に、非常に価値があると感じないだろうか?なぜなら、日本古来の伝統的行事である、祭りが衰退し、本質的に変わってしまっているからだ。
もし、この状況が、飲食店などの利益を目的としたビジネスであれば、自然淘汰されるのは、この外国資本も参入できる自由資本主義社会においては、ある程度仕方ない、、と受け入れざるを得ないのかも知れない。個人的には、大好きなお店が閉店するのは寂しい思いがするけれども、今の日本社会においては、市場原理における自然淘汰だから仕方が無いのかもしれない。
しかし、神社の祭りが、自然淘汰されていくのを、見過ごすわけにはいかないのではないだろう。
だからこそ、過疎化し、衰退している祭りを再び盛り上げることに価値があると筆者は思うのである。
とはいえ、こういった社会的貢献に繋がるような活動が利益につながるかどうかは別の問題なのだ。
社会的貢献度の高い仕事(役割) ≠ お金
資本主義社会に生きる我々同世代を含め、多くの日本人はお金にならない事に時間を割く事に対して抵抗が無いという人が一体どれくらいいるのだろうか?
解決策として、NPOの立ち上げ、クラウドファウンディングの活用などの新しい取り組みが必要では無いかと思う今日この頃である。
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